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はじまり

「『箇条書き』ばかりしていると『頭が悪くなっちゃう』」のは本当ですか?

先日,「箇条書きをしよう!」といった内容のブログを書きました。

www.arute.me

投稿当日,タイムリーなことに「箇条書きをやめよう!」といったブログ記事を別なブログ経由で見つけました。

rashita.net

このブログ経由で,

www.nakahara-lab.net

この記事を見つけたのです。

「箇条書きはむしろ頭悪くなるのか!変なことを書いてしまった,恥ずかしっ!」と一瞬思ったものの,よく読んでみると納得いかない。

そこで,ぼくの感じた違和感を整理してみようと思います。

引用元著者の意見

「箇条書き」ばかりしていると「頭が悪くなっちゃう」のはなぜか? | 立教大学 経営学部 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する | NAKAHARA-LAB.net の内容を,箇条書きでまとめてみました。

主張

箇条書きを辞めて文章を書こう

理由

箇条書きを辞めるべき理由

 大前提 
  暗黙の前提(引用元未記載。筆者推測)
   思考のトレーニングをすべきである  
 小前提
  箇条書きは,思考のトレーニングにならない
   理由
    大前提
     暗黙の前提(引用元未記載。筆者推測)
      思考のトレーニングは,以下が「必要」である
       ロジックの構築
       ストーリーの構築
    小前提
     箇条書きは,ロジックの構築やストーリーの構築をすることができない

文章を書くべき理由

 大前提
  暗黙の前提(引用元未記載。筆者推測)
   思考のトレーニングをすべきである
 小前提
  文章を書くことで,思考のトレーニングをすることができる
   →構造が複雑なため,以下に切り出し

文章を書くことで,思考のトレーニングをすることができる
 理由
  大前提
   暗黙の前提(引用元未記載。筆者推測)
    思考のトレーニングは,以下で「十分」である
     ロジックの構築
     ストーリーの構築
  小前提
   文章を書くことで,ロジックの構築やストーリーの構築をすることができる
    理由
     大前提
      文意の通る文章を書くことで,ロジックやストーリーの構築をすることができる
     小前提
      文章を書くことで,文意の通る文章を作ることができる
       理由
        大前提
         文意の通らない箇所が「見える化」されていれば,人は,それを修正することができる
        小前提
         文章を書くことで,文意の通らない箇所が「見える化」される

文章を書くことで,思考のトレーニングをすることができる の項目は,以下の文章を箇条書きにしたものです。誤りがありましたらご指摘ください。

これに対して、箇条書きをやめて文章にすると、これらに「脆弱性」をもっている場合には「文章」になりません。
 文章は、「思考の飛躍を、いやがおうえでも、見える化」します。論理が飛べば、文意が通らないし、唐突に感じます。ストーリーをつくることができなければ、単調に感じます。要するに、文意のとおる文章をつくるとは、それだけで思考のトレーニングになるのです。

補足 - 「必要」と「十分」について

この記事をここまで読んでいるかたのほとんどはご存知かと思いますが「必要」「十分」について補足します。

なんでかというと,「必要」や「十分」という言葉は引用元で使っておらず,あくまでも文意をぼくが解釈したものだからです。そのため,用語の認識のズレがあると互いに混乱するので載せておきます。

  • 必要
    • その条件を満たさないと NG ということ
  • 十分
    • その条件さえ満たしていれば OK ということ

例えば,分かりやすいところで親子関係を見ていきましょう。

  • 子供が生まれるには男と女が「必要」である
    • 男だけから子供が生まれることはなく,女だけから生まれることもない
    • 男と女がいるだけでは子供は生まれない(「十分」ではない)
  • 子供がいることは,その父母がいる(いた)ことに「十分」である
    • 子供がいるならば,からなずその父と母がいる

また,「必要」であり同時に「十分」でもあるとき(要するに「完全に一致」なとき)に「必要十分」と言います。

  • コイントスをして「表面が出る」ことは,「裏面が出ないことの「必要十分」です
    • 「無効」とかは考えないことにしてください

箇条書きをしても思考のトレーニングにならないの?

引用元の言い分を整理する

引用元記事の考えを整理して見ます。

まず,大前提として 「思考のトレーニング」には「ロジック/ストーリーの構築」が「必要十分」である ということです。

この前提は明言されていませんが,主張の構造から当然に導かれます。

  • 箇条書きは,ロジック/ストーリーの構築を欠くことを理由に,思考のトレーニングにならないとしている
    • → ロジック/ストーリーの構築のあることは,思考のトレーニングに「必要」である
  • 文章を書くことは,ロジック/ストーリーの構築を行えることを理由に,思考のトレーニングになるとしている
    • → ロジック/ストーリーの構築のあることは,思考のトレーニングに「十分」である

つまり,引用元の言い分としては,

  • 「ロジック/ストーリーの構築」は「思考のトレーニング」に必要十分である
  • 「箇条書き」はロジック/ストーリーの構築がないから辞めよう
  • 「文章」を書くとロジック/ストーリーの構築があるからやろう

ということですね。

「思考のトレーニング」に「ロジック/ストーリーの構築」は「必要十分」なの?

本当にそうなのでしょうか?

「『思考のトレーニング』とは,ロジックの構築とストーリーの構築のことである」ということなのでしょうか?

もし,その通りなのであれば,この点について反論はありません。例えば,下図のようなものを「思考のトレーニング」として定義しているのであれば,納得です。

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でも,もしそうでないのなら(例えば「事象に対して概念化することもまた,『思考のトレーニング』の一種である」なら),主張は破綻してしまいます。

「箇条書き」は「ロジック/ストーリーの構築」ができないの?

「ストーリーの構築」はできなそう

「ストーリーの構築」が(可否はともかく)とても難しい点は,同意します。

たしかに箇条書きは,適切にナンバリングすることで,要素同士を整序することができます。しかし,「順番通りに並んでいる」ことと「物語として成立している」ことには相当な開きがありそうです。

ぼくは,むかし「小説の書きかた」本を読んで小説を書き,投稿したことがあります。

「小説の書きかた」本にはいろんな理論が載っています。

「まず敵が攻めてきて,一度主人公は躊躇するのだが,ヤバイ状況に追い込まれて戦うことになる」というような物語の枠があり,このフォーマットに自分の書こうとしている物語を当てはめていくわけです。

すべて埋め終わると「出来事が矛盾なく順番通りに並んでいる」状態になるのですが,なぜか書き出すとポンコツな小説になるのですよ。

「フォーマットはダメだ!」と言いたいわけではありませんよ。

そうではなくて,順番通りに並べたからといって物語として成立するわけではないということです。

なので「箇条書きではストーリーが構築できない」的な意見については,「くそー。理論上は箇条書きでもストーリーを構築できるはずなのに。でも俺の体験してきた限り,確かに箇条書きではストーリーを構築できないぜ」と思います(でも,理論的には可能なはずなんですよ…)。

「ロジックの構築」はできるんじゃない?

「ストーリーの構築」はできないとしても「ロジックの構築」はできるんじゃないでしょうか?

例えば,引用元の文章を上記に箇条書き化しましたけど,ここで論理性は失われているのでしょうか?

手前味噌ですが,箇条書きという簡素なフォーマットを使うことで,論理構造はむしろ明確になったのではないでしょうか?

文章を書くことで,思考のトレーニングをすることができる の項目については,元の文章を読み解くなかで,論理的にはかなり曖昧だと感じました。

そして,それは引用元著者が非論理的だからなのではなく,「文章」というフォーマットには 「読みやすさを意識しなければならない」という制約 があるからではないでしょうか。

なお,ぼくは「ロジックの構築」が何を指しているのかはかなりフワッとした理解なので「いや,君の書いた箇条書きにはロジックがない」と言われれば,反論はありません。

「すみません,不勉強でした。ぼくはそもそも『ロジックの構築』がなんであるかということから学ぶ必要があります。なにかオススメの本はありませんか?」となります。

「『論理的な』○○」「『非論理的な』○○」があるだけでは?

身も蓋もない言い方をしますが,

「箇条書きには『論理的な箇条書き』と『非論理的な箇条書き』があり,『非論理的な箇条書き』は『論理的じゃない』」と言いたいだけではないでしょうか?

そして,「文章には『論理的な文章』と『非論理的な文章』があり,『非論理的な文章』は『論理的じゃない』」のではないでしょうか?

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この図の左上と右下だけを見ていませんか?

「箇条書き『ばかり』」していると思考のトレーニングにならない?

引用元の文章からは「箇条書きをすること」と「箇条書き『ばかり』をすること」の違いが明確には読み取れませんでしたが,両者はぜんぜん違うものです。

「肉を食べること」と「肉『ばかり』を食べること」くらい違います。

特定のフォーマットを使用し続ければ,動作はフォーマットに最適化されます。つまり,そのフォーマットに必要な動作は習熟していき,フォーマットに必要ない動作はヘタクソになっていきます。

たとえば,ぼくは雑談がヘタクソです。

ぼくは仕事柄,「解説する」ことばかりをしています。つまり「決まったテーマで,まとまった時間,話し続ける」というフォーマットで「喋る」という動作が最適化されているのです*1

そういう意味で「箇条書きばかりしていると,箇条書きに最適化されてしまうぞ!」という主張は,もっともです。

でもそれって「文章ばかり書いていると,文章を書くことに最適化されてしまうぞ!」という主張を受け入れることになりませんか?

「文章を書く」という動作が「思考のトレーニング」と過不足なく一致するならば,問題ありません。

文章ばかり書いていると,『思考のトレーニング』に最適化されてしまうぞ

そうさ。ぼくは『思考のトレーニング』をしているんだ

でも,もしそうでないなら,つまり,以下の図のような関係に確信をもって Yes と言えるのでないならば,文章ばかり書いていたら「頭が悪くなる」ことになるのではないでしょうか?

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フォーマットごとに得手不得手があることを理解して,使い分けたり,使い分けなかったりするのが良いと思う

最近,「ゆっくり書くといいぞ」といった記事を読んだことがあります。

rashita.net

この記事を読んで,「ゆっくり書く」こと以上に「早く書くだけでなく,ゆっくり『も』書く」ことの意義を感じました。これ同じことで,「あるフォーマットだけでなく,別なフォーマット『も』使う」というのが良いんじゃないでしょうか?

そして,そうした時間的な余裕のないひとは「自分は偏っているぞ」という認識を持った上で特定のフォーマットに習熟すれば,ひとまずは良いのではないでしょうか?

*1:パートナーがとても寛容な女性であるため,問題が大きくならずに幸せな日々を送ることができています。感謝です。